わたしは知恵

箴8:12「知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある」
4節から始まるカギ括弧内のこの人の発言は8章が終わる36節まで続きます。この人は、わたしは「知恵」であると名乗った後に、驚くべきことを語るのです。それははるか昔から存在し、神とともにいて創造を手伝っていた(30)…ということです。クリスチャンならすぐにイエス様のことを指していることはわかりますが、ソロモンの時代にまだメシヤの預言でさえなかったころの言葉です。知恵はのちに地上に現れ、取るに足らない滅びるはずの人のために自分の命を捨てるという、史上最大の愚かな行ないをします。知恵が愚かになることにより、人は救われたのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです(1コリ1:25)」とパウロが言っているとおりです。知恵の行なった十字架の犠牲はどう考えても知識と思慮に欠けているように思えます。しかし、十字架の受難のことを英語で「passion」というように、十字架の出来事はひたすら知恵の人に対する愛と情熱によるものだったのです。「愛のない者に神はわかりません。なぜなら、神は愛だからです(1ヨハ4:8)」とあるように、神の本質は愛です。知恵は神のあり方を捨てることができないとは考えずに、自分を無にして人に仕える決断をしました(ピリ2:7)。人が考えると本当に愚かだと思いますが、主の愚かさは讃えられ、賛美されるべきものなのです。