たそがれの日の沈むころ

箴7:9「それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった」
若者がたそがれを待ち、日が暮れ暗やみになるのを待って町に出たことには意味があると思います。日が暮れ、人の目も視界が狭まり、昼間見えるものさえ見えなくなったとき、心に悪だくみを持ち始めるのです。ここで出てくる思慮に欠けた若者は(7)、人の目はおろか神の目さえも暗やみでは通じないだろうと思っていました。女は言います「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました(14)」…あたかもこの女は自分は神の前で正しく捧げ物をして、神に受け入れられている女だと嘘をついているのです。しかし、彼女が男に告げたことは「私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう(18)」というものでした。女には夫がいます(19)。ソロモンが知恵を「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ(4)と最初に言ったのには理由があります。知恵は主のみ言葉であり、悟りは主を恐れることです。若者には思慮が欠け、知恵と悟りを得ていませんでした。誘惑され女と関係を持つことだけが、ソロモンが忠告していることではありません。誘惑の手は人々を苦難に渡し、言いようもない後悔の念を引き起こさせるのです。女はサタンの比喩であり、人の心のすき間を狙って、心に闇が訪れたとき誘惑しようとします。心に暗やみが訪れないように、しっかり主につながっていることが必要です。