どうやって赦すのか

マタ18:33「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」
この話の発端はペテロが「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか(21)」とイエス様に質問したことです。想像ですが、おそらくペテロは他の弟子の誰かに不満を持っていたのではないでしょうか?あるいは実際にペテロが耐え難い仕打ちを受けたのかもしれません。なぜならその直前には「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら…(19)」と書かれているからです。文脈からするとペテロの心にはある兄弟とふたりになったとき、心を一つにして祈ることができない何かがあったのだと取ることができます。それで、神の数字である「7」を使って、自分が賢い判断をしたかのようにイエス様に訴えたのです。これも想像ですが、ペテロは神が6日で創造をされ、7日目に休まれたのなら、7回赦せばその後は赦すことなく堂々とさばくことができるという安易な答えを期待していたようにも見えます。しかし、イエス様の答えはペテロの想定していたものをはるかに超えていたのです。イエス様のたとえ話は「なぜあわれんで」やり、赦すことができないのか…というものです。人の心がサタンに支配されているとき、人は思いもよらない悪口や暴力に及ぶのです。赦すまえには「あわれむ」という心の準備が必要だと思います。