偽善の律法学者

マタ23:27「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです」
エス様が来られたときに非難されるのは悲しいことです。どんなに「自分は精一杯やりました」と言っても、認められないならそれまでの努力は報われないでしょう。聖書をどんなに読んで、研究し教えるのに長けていても、普段の生活が遊興や酩酊で満たされているならイエス様は喜ばれないと思います。また、どんなに長い祈りを捧げたとしても、性格は変わらず、頑固で相手を思いやらないような態度を続けるのであるなら、主に対して何を祈ったのだろうか、と疑いたくなります。御言葉にしても祈りにしても、人が成長しキリストの身丈まで達することが主の御心だと信じます(エペ4:13)。聖書を読んでパリサイ人を「愚かな」人たちと思うのは勝手ですが、イエス様は私たちに警告を与えているのです。「自分だけ」はパリサイ人のようでない」、と思える人はおめでたい人たちだと思います。誰でも人から良く思われたく、見栄を張ることもあるでしょう。パリサイ人が一般のユダヤ人から律法のことを説教されるなら怒るに違いありません。パウロが言うように「弱さ」を誇れるようになれるまで(2コリ12:7)主の恵みを理解できれば幸いだと思います。