咎を負わなければならない

レビ5:17「また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行ない、それを知らずにいて、後で咎を覚える場合、その咎を負わなければならない」
罪から来る報酬は死だとパウロは言っています(ロマ6:23)。もしそうなら、咎を負ったとしても、とても負いきれるものではありません。負ったものを降ろし、軽くなる必要があります。聖書の言う「死」は一種類ではなく複数あります。一般に肉体が死ぬことを「死」だと考え、日本人の多くは死んだら何もなくなるように思っています。それでもたましいはどこかにいて、自分たちを見守ってくれている…とうわべでは装いますが、本心は何も信じていません。それは、日本人が何も知らされずに生きている証拠なのです。誰かが「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブ9:27)」と伝えなければなりません。レビ記の時代には何度も罪に関する規定が定められ、それを破ってしまった場合は何かで償うように教えられています。こうしてユダヤ人は何世代にもわたって「罪」を知り、神との関係にはこの罪を排除しなければならないことを学んでいったのです。人が肉体に閉じ込められたのは、主のあわれみが必要だったからです(ロマ11:32)。罪は良いものではありませんが、必然であり、それは神の愛とあわれみによるのです。