年老いても賛美

詩37:25「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」
ダビデがこう言っているので、この歌はダビデが年老いて歌ったものだと思われます。それはダビデが契約の箱を自分の天幕に運んで以来、礼拝と賛美をかかさず捧げていたことを示しています。有名なダビデの歌27編では「私のいのちの日の限り、主の家に住む(27:4)」と歌い、その歌の通りにダビデが年老いたときも主への賛美が途絶えることはありませんでした。ダビデが自分で作った本物の神殿ではない、仮の天幕を主の宮と定め、そこでの礼拝はダビデの治世40年間続いたのです。そして、ダビデは自分が年老いるまでに正しい者が見捨てられたり、その子どもたちが飢えるのを見たことがないと証言しています。主に拠り頼むものが見捨てられることがないことを自分の目で見て、確信をもっていたからこそ、この歌の内容が歌えたのだと思います。ある人は貧しいかも知れません。またある国では生活に困窮している人もいるでしょう。それでも主に信頼する人には、死を覚悟した極貧の親子にもエリヤが遣わされたように(1王17章)どこからともなくお金や物が与えられ飢えることはありません。主を試すことはよくないことですが、途方に暮れるような状況のときにこそ信仰は試されるのです。最後まで主を信頼できれば、ヨブのように元通りにされさらに有り余る祝福が待っていると思います。