いけにえは飽きた

イザ1:11「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない』」
いけにえを捧げよ、と命じたのは主ご自身です。最も古いいけにえを捧げた文献は、ノアが箱舟から出てきたときのものです(創8:20)。出エジプトのときモーセがパロに訴えたことは「私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください」というものでした(出3:18)。エジプトを出なければならない最大の理由は「いけにえ」を捧げるというものだったのです。それ以来、モーセは荒野において幕屋を作るように命じられ、そこではいつも罪のための捧げものが捧げられていました。それは約束の地に入っても続けられ、ダビデの幕屋時代も、ソロモンの神殿時代も変わらぬ約束ごととして行なわれていたのです。ところが、いけにえや脂肪に飽きた…と主は言われるのです。どんなにいけにえを捧げても悔い改めないイスラエルの民に厳しい警告を突きつけている主の怒りがここに見られます。「誰が土足でわたしの庭を荒らしてもいいと言ったのか」といかり、ただいけにえが単なる形式に終わって、悔い改めに導びかれていないことを残念がっています。罪を犯しても許される…という甘い考えがあるなら、現代に生きるクリスチャンにも同じような扱いがあるかも知れません。