ちりから起こされ

詩113:7「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ」
「ちりから起こし」の「ちり」は、創世記で人を造った「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた(創2:7)」とある記述の「ちり」とおなじ「'aphar(アファー)」が使われています。ちりから造られたものが不平をつぶやいたり、高慢になるのは、神の目から見ると「何を勘違いしているのか?」と言いたくなるでしょう。それでも「身を低くして天と地をご覧になる(6)」主の態度は、いかに人を愛しているか…という表れであり、人の想像には及ばないものです。人に肉を与えたのは、パウロによるなら「不従順のうちに閉じ込めた(ロマ11:32)」ことになっており、人を憐れむための神の知恵だったことがわかります。ちりであり不従順な存在を愛するのは、神にとっても相当な覚悟が必要だったと思います。自分の子を犠牲にしてまで、人を救おうとした神に対し、ちりである我々は主をたたえることだけしか選択肢が残されていないのです。何か神のために…と思ったとしても、自らの力でできることなど僅かです。良い行いも主が用意されたものなら(エペ2:10)、あとは何をすべきかはおのずとわかってくるはずです。