民衆はみな答えて

マタ27:25「すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」」
いくらイエス様のことを神の子だと認めないとしても、このことばはまずいでしょう。メル・ギブソン監督の「パッション」が公開されたときにユダヤ人の団体から、まるでユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけたように見えるとして抗議していました。しかし、聖書をよく読んでみるならローマの総督ピラトは公衆の前で手を洗って、イエス様を罪に定めたことには関係ないとしています(24)。さらに祭司、長老たちが民衆を説き伏せたことも書かれており(20)、ピラトも彼らのねたみがイエス様を捕らえさせ、十字架にまでかけようとしていることを理解していました(18)。民衆の中にもイエス様に癒された者もいただろうと思われますが、これが集団心理の恐ろしいところです。明らかに答えが間違っていても、多くの人がその間違った答えを指示するなら、個人の意見は捻じ曲がっていきます。いじめの現場で立ち向かえる子供はよっぽど肝の据わっている子です。イエス様は正しい…と心の中で思っていても周りのすべての人が「十字架に架けろ」と言うなら、その意見に心は流されていってしまいます。それゆえイエス様は信仰を大切にされたのです。