思い直されたではないか

エレ26:19「そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている」
この章の最初にこの出来事はエホヤキムの治世の始めにおきた、とあります(1)。そうするとヒゼキヤが主を恐れてユダの民にわざわいが下されないように願ったのは100年以上も前のことになります。ヒゼキヤ以降マナセ(55年)、アモン(2年)、ヨシヤ(31年)と続き、今のエホヤキムにつながります。日本の100年前は1915年で大正4年にあたります。総務省の発表では100歳以上は58,820人だそうですが、古代ユダ王国の時代に100年も生きる人は稀だったと思います。それでも口伝えでヒゼキヤ王の善行は知られており、首長たちとすべての民は、祭司や預言者たちにエレミヤを死刑にすべきでないと訴えました(16)。それはヒゼキヤの出来事を荒唐無稽の伝説などではなく、はっきりした事実として彼らはとらえていたからです。そこには、たとえ預言者が自分たちに不都合なことを預言したとしても、ヒゼキヤの時代のように、主に立ち返り、自分たちの罪を悔い改め、正しい行いをするなら主はわざわいを思い直される、という彼らの信仰がありました。すでにエジプトの支配の手はエホヤキムに及び、バビロニアの力も脅威になっています。エレミヤの預言を信じるなら「わざわいを思い直そう(3)」と語られた主のご好意を受けられたはずです。残念ながら最後までユダヤ人が主に立ち返ることはありませんでした。