酒飲まないだけではだめ

エレ35:14「レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった」
ある命令は守れたけれども、ある命令は守れなかったことを示すために「酒を飲め」と命じられます(5)。案の定、彼らはその命令には従っていたので堂々と「酒は飲みません(6)」と答え、さらに「住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません(9)」と先祖が守ってきた教えに従ったと主張するのです。しかし、主にしてみれば、先祖には従ったとしても、先祖があがめている神のことばには従えなかったとしか思えません。そこでレカブの民に2つのことを宣言します。1つは「わざわいを下す(17)」で、もう1つは「わたしの前に立つ人が絶えることはない(19)」といういものでした。主ははっきりと従った者には、主の前に置きその臨在を輝かせ、従わなかった者にいはわざわいを下すことをエレミヤを通して語っておられます。神は哀れみ深い…ということだけに焦点を当てて、クローズアップするなら、「何でも許してもらえる」という勘違いに走りがちです。確かに主は忍耐強く、怒るのに遅い方ではありますが、公儀を曲げてまで人を許すわけではありません。酒は飲まなくても、他の神を拝むのをやめないのは主の目にはどう映るのでしょうか?