うまくいかなくても

ネヘ5:15「私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった」
ネヘミヤがユダにやってきたのは、神殿の修復作業がうまくいっていなかったからです。エズラの時代にすでに15年以上作業は止まっていました(エズ4:5)。何も仕事をしなくなると、どうしても堕落し勝ちです。日本でも犯罪者の多くは「無職」とされています。ネヘミヤの前任者たちが全員私欲に走るためにユダに来たとは思えませんが、周りの執拗な妨害に心が折れるのはなんとなく想像できます。ネヘミヤは自分自身も親戚も総督の手当てを受け取りませんでした(14)。自分を粛清してこそ、リーダーとして意見が言えます。それでも、ネヘミヤはユダにいたトビヤとサヌバラテたちからしつこく会談をしようと迫られます(6:2)。神に従うときに、すべてがうまくいくと考えるのは何の根拠もない幻想に過ぎません。パウロも多くの苦しみを通ったことをコリントの手紙の中で告白しています(2コリ11:23-27)。何も障害がないから喜ぶのではなく、主と共にいることができることを喜びとできるようになるまで、主の訓練は続きます。ネヘミヤは多くの困難の中で学び、主のために働けることを喜びをしていたのだと思います。