見せかけであろうとも

ピリピ1:18「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」
「見せかけ」の英語は「false motive(NIV)」「pretence(KJV)」が使われ、どちらもギリシャ語「prophasis(プロファシス)」から訳されたものです。「いつわりの動機」とか「ふりをする」という意味で、パウロは純真な動機でなくても結果的に福音が伝われば良いという考え方をしています。真面目に考えるならそんな不純な動機で神が喜ばれるわけがない、とか祝福を受けることができない…と思い勝ちですが、キリストがどういう形であれ伝わることがパウロの優先事項なのです。確かに間違ったキリストのことが伝えられるなら困りものですが、わたしたちの罪のために十字架にかかり、3日目によみがえられたことが伝わるならパウロは喜ぶと言っています。つまり福音の力、あるいは神のことばの力は伝える者の能力や技術とは関係ないのです。福 音自体に力があり、聞いた者の心を揺さぶり、感動させるのは人の力の及ばないものです。それは伝える人が高慢にならないための神の知恵なのかもしれません。