祝福は一つ

創27:38「エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた」
祝福などもう一度すればいい…と思ってしまいますが、ヤコブは「国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように(29)」と宣言してしまいました。エサウにも「国々の民はおまえに仕え」と祝福することは、前言を撤回するか、重複してしまうことになり、ヤコブに語った言葉が無効になってしまいます。「祝福」はヘブル語で「barahak(バラハー)」で、「ひざまづく」という意味もあります。聖書では神がアブラハムを祝福し「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう(12:2)」に使われたのが最初です。イサクの祝福は聖書の中で2番目に登場したことになります。つまり、イサク以前に祝福を行ったのは唯一主だけです。それだけに祝福の重みは深いものだと言えます。ヤコブに取られたからといってホイホイと2回、3回と祝福できるようなものではなかったようです。それでもヤコブは神にとがめられず、旅先のハランで天からのはしごを目撃するのです(28:12)。ヤコブには主の導きがありました。