食べるには

1コリ11:25「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい」
多くの教会では1コリント11章の24,25節を聖餐式のときに引用します。本来はコリント人へ書かれたことです。それはコリントという街が港町で多くの地域から人が集まっていたために、各地の風習や伝統が違うことが関係しているようです。特に偶像にささげた肉は議論の中心にありました(10:19-28)。この章では待ち合わせて食べることや(33)、食べること自体が自分のからだを吟味し、主のために食べることだと教えています(28)。日本ではお守りとかお札などがあり、これを持っていると神や仏から守られると考えられています。実際にはただの紙切れや木でしかないのですが、そういうものをクリスチャンが持つのもやはりつまずく原因になるのでしょう。偶像にささげた肉が同様な印象を人に与える のであれば、もう肉は食べないとパウロは宣言しています(8:13)。ともに集まって食べることには意味があります。ただ腹が減って、肉を満たしたいのならば家で食べろ…とまで書かれています(34)。パンを裂く意味を理解し、何が良い悪いでなく信仰をもって食べることが大切なのではないでしょうか。