申命記6章 マサで試みたように

申6:16「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない」
シナイ半島を旅するイスラエル人たちは、たびたび水がないことに苦しみます。葦の海(紅海)を抜けた後にも(出15:19)、荒野には水がありませんでした(出15:22)。マラで苦い水を見つけたとき、イスラエルの民は文句を言っています(出15:24)。これ以来イスラエルの民の不平は続ましたが、マサで水がなくイスラエルの民が「水をください」と言ったとき、主を試みたとされています(出17:7)。マラとマサでは何が違っていたのでしょうか?申命記では、マサのことが語られ、主を試みてはならないと命じられています。聖書にはイスラエル人が「主は私たちの中におられるのか、おられないのか(出17:7) 」と言ったとあります。神がいるなら、我々の要求を満たせ…というのは、試みというより脅しに近いものです。誰もが神が全能であるがゆえに、必要を満たして欲しいと願うことは理解できます。しかし、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです(ヤコ4:3)」とあるように、自分が中心にいるなら、それは神を試みることになります。