詩篇103篇 人の日は、草のよう

詩103:15「人の日は、草のよう。野の花のように咲く」

モーセは「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年(90:10)」と歌い、80年の生涯は決して長くなく、早く過ぎ去るものだと感じていたようです。ここでも人の日は草や野の花のようで風がそこを過ぎるなら、もう消えてしまうようなはかないものだと歌っています(16)。そのような神にとっては瞬きするような短い時間でも人を思い、憐れんでくださるのは不思議なことです(18)。ダビデは主のための神殿を建てたいと願ったとき、ナタンをとおして断られると、「私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか(1歴17:16)」と語っています。ダビデにとっても、全宇宙を支配するような神がダビデ一個人に目を留め、心尽しのはからいを受けるのを不思議がっています。もし、人生の中で神を知るチャンスがあるのなら、棒に振ってはなりません。かならず神を知り、関係を持つことです。神の目には身分も立場も年齢も性別も関係ありません。すべての人が主を覚え、主を恐れるなら、めぐみをとこしえに与えてくださいます(17)。聖書の記述をそのまま使うなら「主の義はその子らの子に及ぶ(17)」とあります。神にとって不可能なことは決してありません。