木があまったら

イザ44:17「その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う」
その残りというのは前節に書かれている「その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する(16)」の後の木の残りのことです。主が雨を降らし育てた杉の木をたきぎにして、パンを焼いたり、暖まるのはかまいませんが(15)、木が残ったからといって神の像を作るものでもないでしょう。しかも「私を救ってください」と拝むのです。何かちぐはぐな気がしますが、世界中で似たことが行なわれているのです。そもそも神が何か不自由でもあるように人の手によって仕えられる必要がある、と考えていることが間違いです(使17:25)。ただ、福音の宣教だけは人の手にゆだねられています。それは人を通して神の栄光を表す、最初の創造の目的を果たすためでもあります。神の力と権威があれば、どんな人に対しても「わたしを信じなさい」と言えばその通りになるでしょう。しかし、命令によって愛し合う関係は神は望んでおられません。あくまでも自分の意思で神を選び、礼拝し、賛美し、愛し合う関係を望んでおられるのです。