聖絶すべきこと

士2:17「ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった」
さばきつかさ「shaphat(シャファット)」は申命記では最低でも8回、ヨシュア記でも3回は使われていることばで目新しいものではありません。もともとは各部族の上に立てられたリーダーのようなもので、名前の通りに主の命令に対し良し悪しを判断した者たちのことです。モーセは死ぬときにヨシュアを後継者として指名しましたが(申34:9)、ヨシュアは誰も指名しませんでした。そのためイスラエルにはリーダーが不在になり(1:1)、途端に不安定な状態になっていくのです。それでも主の立てた、さばきつかさのために危機を回避することができ、彼らに期待すべきだったのでしょう。しかし、さばきつかさたちは人間的で欠点も多くあり、彼らの統治力は今いち完成度の低いものでした。そのため「聖絶せよ」という主の命令に従わず、土着の民と共存する羽目になってしまったのです(1:19など)。その結果として、ほかの神々が入ってくることを許容することになり、それが主の怒りを買いました(3)。「心の一新によって自分を変えなさい(ロマ12:2)」はパウロの有名なことばですが、罪から離れる決心をしたなら、心にある罪につながる要素を「聖絶」しなければ、士師の時代のようになってしまうのです。