肉体の鍛錬と敬虔

1テモ4:8「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」
「敬虔」のギリシャ語「yusebaa(ユセバイヤ)」はNASBの訳元のギリシャ語聖書には15回登場し、その内10回がテモテの手紙に使われています。それほど、パウロはテモテに「敬虔」こそ学ぶべきことだと感じていたようです。敬虔を学べ…と言われても、「敬虔」が何かを知らなければ学ぶことは難しいでしょう。3章では「敬虔の奥義」だと福音の根幹のことばをテモテに伝えています(3;16)。この「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」をとりあえず、「敬虔」の定義だと仮定するなら、これを信じている信仰が敬虔そのものであり、今のいのちと未来のいのちが約束されている…というのも説明がつきます。ひたすら肉体を鍛え、ムキムキの体で無信仰な人よりは、ガリガリでも敬虔である人のほうがましです。それでも肉体の鍛錬を全否定していないところにパウロの年上としての経験さを感じます。体を鍛えることで忍耐力を学んだり、自制心を身につけることもできるでしょう。自制心は御霊の実です(ガラ5:22-23)。