主語を差し替えるなら

マタ7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」
次の節では預言をし、悪霊を追い出し、奇跡まで行っても、「あなたを知らない」と書かれています。では、「悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った(ルカ4:41)」…この悪霊はどうでしょう?イエス様を神の子だと告白しています。悪霊たちは天の御国に入ることができたでしょうか?またイスカリオテ・ユダはどうでしょう?彼は天の御国に入れたでしょうか?もちろん聖書には「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません(1コリ12:3)」と書かれていますから、イエス様が主であることを口にすることは大切なことだと思います。ただ「主よ、ハレルヤ」と、教会や人前で言ったとしても、神は心の中を見られていることを知るべきです。わたしが預言し、悪霊を追い出し、奇跡をした…となると、主語は「わたし」になってしまいます。22節を見るなら「わたし」が主の名によって多くのことをした、という風にも取れます。主の名を使ったのはわたしだ…となると、なんだか雰囲気が怪しくなってきます。クリスチャンはあくまでも主に栄光を帰する器だと悟ることが必要だと思います。